暑い日、冷蔵庫から冷たい麦茶ポットを取り出す。キンと冷えたグラスに麦茶を注ぎ、ごくごくと喉を潤す。ああ、おいしい。至福の瞬間です。
僕の家では、この何気ない麦茶を飲むという日常の行為に、いつも不思議な「運」の力が働いている気がします。それは、なぜか自分が麦茶を注ぐとき、決まって最後の一杯。いつも、麦茶ポットが空っぽになる瞬間を自分が担当しているような気がしてならないのです。
そして、麦茶ポットを空にした者には、次の麦茶を作るという使命が課せられます。あるあるですよね、どこの家でも。
この些細な出来事が「運」という、少しばかり哲学的なテーマについて考えるきっかけになりました。
運とは何か?単なる偶然か
「なぜ、いつも自分が次の麦茶を作るハメになるのか?」
不思議なことに、こうしたことがあまりに頻繁に起こると、人はそこに「何か」を感じ取ってしまうものです。まるで、自分だけが麦茶の底にたまった幸運、あるいは不運を一身に引き受けているような気がするのです。
「運が良い」とは、偶然にも自分の望む結果がもたらされること。「運が悪い」とは、その逆です。麦茶のポットを空にするという行為は、一見すると「運が悪い」出来事のように思えます。しかし、本当にそうなのでしょうか?
僕が考える「運」は、確率的な出来事という要素だけではなく、その出来事をどう捉えるかという個人の心の持ちよう、この二つの要素が合わさった文脈の中で生まれるものだと考えています。
「あー、また自分が空の番だった。自分ばっかり、、、」と不満に思うか、「自分には、何かを引き寄せる不思議な力があるのでは?!」と前向きに捉えるかで、その出来事の「運」としての意味は大きく変わります。
普通、運を考えるとき、自分ではコントロールできない外部の力だと考えがちです。しかし、実は運とは、自分がどう行動し、どう物事を考えるかによって、その流れを少しだけ変えられるものなのかもしれません。
運は自分のところに来た段階でねじ曲げられる
「麦茶の最後を引いてしまう」という何でもない些細な出来事から、「運」などという大層な考察をしてしまいました。
1. 運はコントロールできないが受け取り方で幸運にも不運にもなりえる
麦茶のポットを空にするという運命を受け入れ、淡々と次の麦茶を作るという行動を起こすだけ。わざわざ自分でアンラッキーにしない。
2. 不運を嘆くより、次の幸運の準備をする
ポットが空になったとき、「またか…」とため息をつくのではなく、「次も誰かが飲むから作っておこう」と考える。この他者への配慮の気持ちが、回りまわって、自分にも良い運をもたらすのではないでしょうか。
3. 「与える」ことで「受け取る」
麦茶を作るという「与える」行動は、次に麦茶を飲んだ誰かに、冷たい安らぎという「幸運」を与えます。そうした小さな「幸運」の連鎖が、最終的に自分自身の運を良くしていくのです。これは、ビジネスでも人間関係でも同じです。見返りを求めずに与えることで、やがて幸運は巡り巡って戻ってくるものです。
まとめ
運とは、決して特別なものではなく、私たちの日常の小さな行動や考え方の中に潜んでいるということ。不運に思える出来事の中にも、実は次の幸運を準備するためのメッセージが隠されているということです。
次に麦茶ポットが空になったら、不運を嘆くのではなく、「よし、次の幸運を自分で作ろう」と、前向きな気持ちで新しい麦茶を淡々と作りますよ。